昭和43年8月30日 夜の御理解
信心はその気になってさせてもらうところから、なされるのが信心である。その気になって取り組むのがなされなければ、それはどこまでも、付け焼き場の信心で一度参って見なさい。一度参って見ようかとそういうような間はまだ信心ではない。信心と言うものはその気になってから、いわゆる付け焼き場の信心の間は付け焼き場、その気になって信心させて頂くこと。昨日私は善導寺に井上さんの車で送ってもらっておる。丁度善導寺の町中でした。向こうのほうから ******
みんなが暑いから日陰をよって歩いてなさる。汗が出らんようにと、いうように 道を歩いておられるんですけれども、メゴをかついだまま走って来よなさるから、みんなに話したことですけれど、見てごらん。本気でやる気は汗が出るとか、出らんとか問題じゃあないですよ。もちろん、あれは九電車の時間に間に合うか何かで走っておられたにちがいないですけれども、もうあれだけ、はまって見えておりますから、汗が出ることと言ったようなことは問題じゃあないわけなんですよね。もう暑いところを通ることは問題じゃあないのです。それを売ってしかもそれがいくらかの利益を得てそして帰り着くまでがやはり、それがやりがいだと思うです。けれども、信心でもそうです。信心には修業がつきものですから、その信心をし抜くためには修業を念頭から外してはなりません。信心をするからには、修業させてもらわなければ、信心は出来ません。信心には修業がつきもの。つきものである修業がです。いわば、付け焼き場であっては、何時まで立っても信心が本当の信心にはなりません。その気になって信心せよ。その気になると見やすう出来る事。本気になれば見やすう誰となく楽しゅうなる事。いわゆるありがとうなること。楽しゅうありがとうならなければ、信心の稽古は出来ません。だから、おかげはもう先のもん。いわば、おかげだけが目当てであるとどうしてもいわば、できるだけ、まあずっとおかんでおる。まあ、いうなら出来るだけ、まつの信心をする。おかげの方だけは立派なおかげを大きなおかげを頂くのなら、頂こうと言うような信心を安気なことにしてはおかげは頂けない。信心はどこまでもその気になること。本気になれば、***
本気になりゃあ、今まで出来ないことも出来る様になる。しかも、見やすう出来る。しかも楽しゅうできる。それがありがとう出来る。その気になって信心をさせて頂くことです。どうぞ。
(このあとは、途中から入り、途中で切れる言葉が聞き取りにくいので、やめました。)